東京地方裁判所 昭和28年(ワ)8323号 判決 1956年2月24日
原告 黒田ぎん
被告 岡田サク
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、被告は原告に対し東京都江戸川区西小松川二丁目千百三十一番地所在木造瓦葺二階建長家一棟の内向つて右側二軒目の建物階下九坪二階七坪(家屋番号一〇八一番)を明渡し、昭和二十六年十二月一日より同月末日までは一箇月金五百四円、昭和二十七年一月一日より同年十二月末日までは一箇月五百五十九円、昭和二十八年一月一日より右明渡済に至るまで一箇月金一千百円の割合による金員を支払え訴訟費用は被告の負担とするとの判決と仮執行の宣言を求め、請求原因として次の通り述べた。
原告は前記建物の所有者であるが昭和二十年五月頃被告に対し期間の定めなく賃料は一箇月金二十八円毎月末日原告方持参払且、原告の承諾なくして本件建物の原状を変更しない約束で賃貸した。その後賃料は値上となり、昭和二十六年十二月一日以降は一箇月金六百六円、昭和二十八年一月一日以降は一箇月一千百円として催告したが、被告は昭和二十六年一月一日以降の賃料の支払をしない。よつて原告は昭和二十八年八月二十二日被告に対し同年九月三日までに未払部分の賃料の支払を催告し、これに応じないことを条件として本件賃貸借契約は解除せらるべき旨の書面により意思表示をなし該書面は翌二十三日被告に到達した。しかるに被告は右指定期間内に賃料の支払を肯じないので右期間満了と同時に本件賃貸借契約は解除の効力を見るに至つた。
仮に右解除の効力を生じないものとしても、被告は昭和二十六年春頃より現在に至るまで本件建物二階居室において、金属性コンパス製造の作業をしているが、これは著るしく建物を損傷し遂に住居として使用不能となるおそれがある。そこで原告は昭和二十八年六月一日本書面到達の日より一週間内に右部屋の作業所として使用することを止める旨を催告し、併せて右期間内にこれに応じないときは本件賃貸借契約を解除する旨の書面による意思表示をなし、該書面は翌二日被告方に到達した。しかるに右期間を過ぎても依然として作業所としての使用を止めない。したがつて、右期間満了と同時に本件賃貸借契約は解除の効力を生じた。
よつて原告は被告に対し本件建物の明渡しと本件賃料額を別紙<省略>計算書の通り法定の限度内に引直して、昭和二十六年十二月一日より同年十二月末日までは一箇月金五百四円、昭和二十七年一月一日より同年十二月末日までは一箇月金五百五十九円昭和二十八年一月一日より本件建物明渡済に至るまで一箇月金一千百円の割合による、解除の日までは賃料としてそれ以後は損害金としての支払を求めるため本訴請求に及んだと述べ
被告の主張事実に対し本件賃貸借の賃借人が亡岡田憲次郎であり、被告主張の三名において本件賃借権を共同相続したとの点は否認する。仮にそうであるとしても、継続的契約関係にある建物賃貸借においては、そのまま旧来の相続理論が適用されるものではない。少くとも賃料債務不履行を理由として契約の解除の意思表示をなすには相続人中世帯主的地位にある者に対しなせば足り、その解除の効力は他の相続人にも及ぶものと解すべきであり、本件の如く日常生活上世帯主の地位にある被告に対しなした賃貸借契約解除の意思表示は有効である。なお本件賃料の供託者名義も被告であることはこの間の消息をうかがうことができる。また被告主張の供託の事実は認めるが、原告において受領を拒絶しないのに勝手になしたものであるから、供託としての効力はない。と述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め答弁として、原告主張の日、それぞれ賃料請求と、作業所使用禁止に関する催告並に、その主張のような条件附解除の意思表示が到達したこと本件建物適正賃料算出の基礎となる建物評価額や敷地坪数の点は認めるがその他の点は否認する。
原告主張の賃貸借は被告の夫であり訴外岡田繁雄、入江寿美子の父である亡岡田憲次郎が原告との間に原告主張のような内容で締結されたものであるが、右憲次郎は昭和二十六年三月十日死亡し被告や右訴外者等でこれが賃借権を共同相続した。従つて仮に被告側に原告主張のような債務不履行があつたとしても、被告一名に対しなした催告や解除の意思表示は効力を発し得ないし、また被告一名のみを相手としてなした本訴請求は失当である。
仮にそうでないとしても、被告には、原告主張のような賃料延滞の事実はない。すなわち原告は憲次郎存命中より賃料の受領を拒んだので供託を続けていたものであるが、原告は昭和二十六年十二月中従来の居所より突然他え移転しその所在が不明となつた為、被告は当時適正賃料であつた一箇月六百六円の割合で東京法務局に適法な供託をなした。原告は昭和二十八年五月十一日に到り被告に対し、始めて現在の居所を通知してきたが、原告は以前より賃料の受領を拒んでいるのでその受領を拒絶することは明白に予想されたので昭和二十八年四月一日以降現在に至るまで一箇月金一千百円の割合(但し従前の賃料で不足部分は後に補充供託し全部原告主張通りの賃料額)で供託している。
また、原告主張の部屋の使用については、被告は、ボール紙を畳の上に敷き、その上に約二畳位のトタン板を敷きさらにその上にござと、高さ一尺巾三尺横一尺位の木製の台をおいて、その上でコンパスの組立を内職的に行つているに過ぎず原告主張のような部屋の損傷は少しもないと述べた。<立証省略>
理由
原告主張の賃貸借が原告と被告との間に締結されたものであるか或は、被告先代亡岡田憲次郎との間に締結されたものであるかとの争点について先づ考えると、被告本人尋問の結果(第一回)と成立に争のない乙第二号証の一、二を綜合すれば昭和二十年の四、五月頃被告の夫であり、訴外繁雄、寿美子の父である亡岡憲次郎が賃借人として、原告との間に原告主張の建物につき賃貸借契約を締結したものである事実が認められる。この点に関する証人黒田真砂男の証言(一、二回)は採用し難く、特別の事情のない限り夫が一般に賃借人となり賃貸借に関する権利義務の主体となるのがわが国の通例であることから考えてもこのことは首肯し得るところである。而して右乙第二号証の一、二によれば右憲次郎は昭和二十六年三月十日死亡したことが明かであり被告や前記訴外人等において本件賃貸借における賃借人の地位を相続により承継したものと認めるの外はない。してみると、賃借人側に賃料の延滞があり、或はその使用が不当であるとの事実が存するものとしても、賃貸借契約の解除の意思表示は賃借人全員に対しなさなければその効力を生じ得ないことは民法第五百四十四条の規定上明かである。もつとも原告主張のように賃借権の共同相続の場合に、賃借人としての共同相続人の地位は、他の一般法律行為の場合の数名の当事者の場合と実質上異るものがあり共同相続人中当該賃借建物について主宰的地位にあるものを以て他の相続人を代表するものとして処遇するのが実際の便宜に適する場合が多いことを認め難くはないが、いわゆる個人法の体系下にあるわが民法の諸規定からかような解決に到達することは未だ甚だ困難であるというの外なく、また実質的に考えても、共同相続人の一名に対する履行の催告により賃貸借契約の解除をなし得るとせば、他の催告を受けない相続人をして右の履行を完了して賃借権の解除を防止し得る機会を閉す結果となる。かような結果はわが国現在の共同賃借人間の実情上無視してもよいとはたやすく首肯し得ないであろう。而も本件の被告は、他の相続人と本件家屋において共同生活をしていることは被告本人尋問の結果(二回)によるも明白であるが、単に日常の家事を主宰しているというに止まり(被告本人尋問の結果(二回)中自分は実質上世帯主であると陳述しているのはこの趣旨に解する)その生活資力は主として、その子たる前記繁雄の収入に仰いでいることは被告本人尋問の結果(二回)で認め得るのでこの点に関する原告の主張は採用できない。してみると、本件賃料延滞不当使用に基く賃貸借契約解除を前提とする建物明渡の請求は失当として排斥する外はない。
次に賃料の請求の点につき考察してみると、仮に共同相続人の一人である被告に対し賃料全額の請求が可能であるとしてみても、結局原告主張の賃料額は、すべて被告において供託済であることは当事者間に争なく、ただ原告は右供託は原告において賃料受領の拒絶をした事実なきに拘らず、勝手になしたものであると主張し、証人黒田真砂男の証言(一、二回)中にはこれに照応するものがあるが、証人竹内ちかの証言被告本人尋問の結果(一、二回)成立に争のない乙第一号証に徴すると、被告先代亡岡田憲次郎が生存当時からも既に賃料値上をめぐつて紛争を生じ従前の賃料の額の受領を拒絶されたのでこれが供託をなしていたこと、その紛争も一たん調停で解決したが、その後さらに賃料の値上問題で当事者の対立があり、またその後、昭和二十七年一月頃から昭和二十八年五月中まで原告本人が居所を不明にしていた事実を認めることができるので、かような状態の下においては賃借人は従前の賃料額を提供しても受領を拒絶せられるものと考えるのが通常であると推測し得るものであるから、被告の供託を以て無効のものとは称し難い。従つて被告に対する賃料請求もまた理由がないものと認める。
よつて原告の本訴請求はすべて理由がないのでこれを棄却すべきものとし訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し主文のように判決する。
(裁判官 柳川真佐夫)